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思索日記

考えていることを書いただけです。
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9年が経ちました。

  あなたが亡くなってから9年が経ちました。

  いつも通りの日々、というわけでもありませんが、なんだかんだでみんな多分生きております。
  少なくとも僕は生きております。

  8888人目の来訪者に詩を贈るはずだったのですが、もう何千人も来訪者を通り過ぎていますよ。

  9年という月日が僕と貴女との間に大きな距離を持たせたのは事実だと思います。

  というのも、9年間、貴女は変わらず存在し続け、僕は変わり続けたからです。
  いつのまにか貴女の歳を追い越してしまいました。
  悲観的な性格は随分と変わりました。
  彼女もできました。
  考古学者の夢をあっさりと捨て去り、弁護士になろうと考えています。

  詩はほとんど書かなくなりました。

  でも、今日は書きます。
  あなたが僕の人生の一つの出発点であることは疑いが無く、その出発点は常に詩と共に在ったからです。
  昔のように書けはしないでしょうが、書きます。

     香りと痛み

   今日は貴女の日だから
   僕は慣れない煙草を吸う

   今日が貴女の日だから
   僕は肺の汚れを気にせず煙草を吸う

   煙は空に昇っていき
   掴みようも無く透けていくけれど

   確かに香りは部屋に服に
   煙草が在ったことを染み付けていく

   今日は貴女の日だから
   僕は飲めない酒を飲む

   今日が貴女の日だから
   僕は胃を気にせずに酒を飲む

   明日の朝には酔いから醒めて
   空いた酒瓶も捨てられるけど

   確かな痛みが僕の中に
   酒を飲んだことを刻み付けている

   
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司法試験について感想と雑考

 先日、司法試験の合格発表があった。

 私の番号もあり、おそらく私が一番驚いた。

 5月にあった試験の感触に絶望感を覚えながら、公務員試験の勉強や、司法書士の勉強を始めていたし、
 最近では、絶望が講じて、全く関係のない読書ばかりしていた。
 夜目を閉じれば、致命的だと思われる記述ミス、論点落とし、誤解を思い出しては、必死に逃避を続けていた。
 しかし、私は合格した。

 おそらく、法科大学院で私のことを多少なりとも知っていた同輩達も、私の合格を意外に思っただろう。
 (もちろん、そんなことは彼らは顔に出さない。微笑を浮かべて、おめでとうと言うだけである。
 目が笑ってない人が多かったが)
 全く同感である。
 何故私が合格したのか、さっぱりわからない。

 今のところ、何位で合格したのか、各教科でどのくらい得点したのかは、わからない。
 しかし、一応合格できたからには、過去の司法試験合格者がそうしてきたように、私も自分の合格にいたる経緯を明らかにすることは、模範生あるいは反面教師として有益であると信じる。
 (この読者の少ないブログに何の有益性があるかは知らないが、これは私のための記録でもある。)

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美味しんぼ問題について

 美味しんぼ問題について

 事件の概要は次の通り。
 ある漫画において、「福島の真実」と題して、原発事故の影響で鼻血が出たと主張する元町長をモデルとした脇役、実際に鼻血を出している主人公、原発事故と鼻血の因果関係は証明されていないとコメントする医者を描写した。
 これについては、風評被害を助長するとして、住民、自治体、政府、ネット上の匿名市民、利害団体、及び、政治家から、懸念ないし不快感が示された。
 公的には、鼻血と原発事故の因果関係があるとのコメントはなされていない。
 むしろ、首相として「放射性物質に起因する直接的な健康被害の例は確認されていないということだ」というコメントが報道されている。(2014年5月17日)

 まず、原発事故と健康被害の関連性について。
 関連性が無いという意見も、関連性があるという意見も、あるいは健康被害が起きていないとする意見も、起きているという意見も、い素人には真否を判断しかねる。
 したがって、どちらの意見が誤っているとか、根も葉もない噂にすぎないとか、いうことはできない。
 確かに風評被害かもしれない。
 しかし、風評被害でない可能性もある。

 次に、表現の自由について。
 表現の自由は絶対無制約の自由ではない。
 しかし、そうそう簡単に制約されて良い自由でもない。
 ましてや、嘘か本当かもわからない段階で、しかも作者の政治的立場を過大に考慮して、表現に対する責任をとらせようと言う態度はとるべきではない。
 私は、嘘をついていると指摘して責任を取らせようとする人が、嘘であることを証明すべきだと考えている。
 何を表現しようが原則として自由で責任を問われないわけで、例外的に自由に対する責任を問うのであれば、責任を基礎付ける事実を責任を問う者が証明すべきである。
 表現の自由に関してはさらに検討すれば、もっと面白いと思う。
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自由の範囲を拡大あるいは縮小させる方法に関する雑記



  自由は選択可能性だといった。誰もが想像力を持っているため、誰もが自由の資格を有しているともいった。

  今日は、自由の範囲について考えてみたい。


  自由の範囲というと、何のことかよくわからない。ここでは、自由の範囲のことを、選択可能性の数量、としよう。できることが多ければ多いほど、自由の範囲は大きくなる。反対に、何もできなくなっているとき、自由の範囲は狭くなっている。このことは日常的な意識に合致している。


  どうすれば、自由の範囲を広げたり狭めたりできるのだろうか。つまり、可能性の数を増やしたり減らしたりできるのだろうか。

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自由と責任、及び、自由が必要とする環境に関する雑記

  人が何かをする。それが原因で何かが生じる。現実が変わる。別の新しい現実が始まる。この別の新しい現実は、人の行為の結果である。意図的な行為であると、意図しない行為であるとを問わず、人は常に新たな現実を生じさせる。


  意図的な行為から、新たな現実を生じさせた場合、それはその人の選択によってなされたことである。つまり、自分の行為がある結果を引き起こすことを想像し、それをするかしないかの選択肢を得て、そして、した、ということである。この人は、この選択に限って言えば、自由である。自由とは選択可能性がある状態のことだからだ。


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